Warning: Error while sending QUERY packet. PID=25776 in /home/uls/public_html/wordpress/wp-includes/class-wpdb.php on line 2349 大磯散策 - 日々の出来事

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2017.06.21

大磯散策・・・(散策)

今から10年ほど前に旧東海道を歩いて大磯を通過した時に見逃したものもあり、何よりも吉田茂邸は見学も出来ない状態であった。そこで、以前よりもう一度大磯を訪れたいと思っていたこと、また、歩き始めた水戸街道で脚力の低下が著しいことが判明したので少しでもトレーニングを行いたい等の考えで、再び大磯を散策してみることにしたものである。

まず、大磯駅を出て、坂道を下って地福寺を訪れた。このお寺は、梅の古木が境内を覆っている。以前にも立ち寄ったところだが、再び島崎藤村と再婚の妻の静子の墓所にお参りした。藤村は、昭和18年8月22日に没し墓石は、東京国立近代美術館の設計等で名高い谷口吉郎の設計で、昭和24年8月22日に建立された。極めてシンプルな形状で「島崎藤村墓」とのみ刻まれている。また、妻の静子は昭和48年4月39日没で、藤村の墓所に接して同様のデザインで小振りな墓所が作られている。

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地福寺を後にして、国道に出て左に曲がると直ぐに創業100年で石臼で蕎麦粉を引く蕎麦屋の「古伊勢谷」がある。残念ながら昨年(2016年4月)閉店したそうである。

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さて、Uターンして国道を西に向かって歩き始める。国道が大きく右にカーブする場所に明治24年創業の和菓子屋の「新杵」がある。こういう伝統を誇る店は、今後も続けて行って欲しいものである。さらに100mほど進むと道路の左側に「湘南発祥の地」の石碑が建っている。由来の説明も書いてあるが、ずいぶんと文字が読み難くなっている。鴫立庵にある石碑がその元となっているので、後ほど記すことにする。

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進むといよいよ鴫立庵である。国道1号線のすぐ脇にありながら、静かでタイムスリップしたような場所である。平安末期の歌人・西行法師が大磯あたりの海岸を吟遊して詠んだといわれていて三夕の歌の1つ「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」にちなんで」、江戸時代初期の 1664 年に小田原の崇雪(そうせつ)という人物が、昔の沢らしい面影を残す景色の良いこの場所に鴫立沢の標石を建てた。そして石仏の五智如来像(釈迦・阿弥陀・大日・阿しゅく・宝生の五仏)をこの地に運び草庵を結んだのが始まりである。

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門を潜って入ると、正面に西行法師の等身大の座像を安置した「円位堂」が見える。また、俳諧道場の左に虎御前の19歳の姿を写した木造が安置された「法虎堂」がある。虎御前は鎌倉初期の遊女で、日本三大仇討ち物語の一つ『曽我物語』で有名な曽我兄弟の兄・十郎祐成の愛人で舞の名手であった女性である。ちなみに、日本3大仇討ちの残り2つは、伊賀上野城下西のはずれの鍵屋ノ辻における荒木又右衛門の仇討ちと誰でも知っている赤穂浪士の吉良邸討ち入りである。

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奥に進んで行くと、佐々木信綱の書になる西行の歌碑があったが、文字はほとんど読めない。更に進むと、釈迦・阿弥陀・大日・阿しゅく・宝勝(宝生)の五仏からなる「五智如来像」がある。

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五智如来像の脇には、「鴫立沢」の標石があり、その石碑の裏に「著盡湘南清絶地」と刻まれていて、これが湘南という言葉の始まりといわれている。湘南という言葉はそもそも中国の湘江の南方一帯の景勝地の称であり、これにちなんで、相模国南部、つまり“相南”が湘南と書かれるようになったとのこと。また、「著盡湘南清絶地」とは“清らかですがすがしく、このうえもない所、湘南とは何と素晴らしい所”という意味で、この標石を建てた崇雪にとって当時この辺りの海岸が、中国湘江南部の美しい景色と同じように美しい場所であったので碑を刻んだのであろう。

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一通り鴫立庵を見学して帰ろうとすると、貞明皇后の行啓記念碑が建っていた。公爵九条道孝の四女として生まれたが、側室の子供であったため、近郊の農家に里子に出され、九条の黒姫様と呼ばれるほど逞しく育ったという。そのことが幸いしたのか病弱な大正天皇の后に選ばれ、大正天皇が病に陥り、執務不全後は天皇に代わり皇室を取り仕切り、元老や重臣たちと渡り合ったという。
ところで、最後にもう一つ気になっていることがあった。西行の歌碑の隣に建っていた「西行銀猫碑」である。帰宅して調べると、「文治2年、消失した東大寺の再建のため奥州の藤原氏に勧進を頼みに行く途上、頼朝より銀猫を贈られた西行は、帰り道子供に与えて去った故事は吾妻鏡に記載されているが、後に幾末代堂守らが西行のごとき無欲無我の慈悲をもち、いかなる者に対しても変らぬ心でのぞむよういましめに建てた石碑とのこと。西行と頼朝の出会いについては、佐藤和彦、樋口州男共著の西行を思い出した。頼朝など歯牙にもかけない西行の言動が面白い。

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鴫立庵を後にして、次は島崎藤村が晩年を過ごし、終焉の場所となった旧島崎藤村邸を見学することにした。国道から細い路地のような道を5分ほど進むと、書斎4.5畳、和室6畳、居間8畳からなる小さな邸宅で、案内の女性一人が見学者の応対に常駐していた。

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見学者は私以外は誰も訪れてはいなかった。この家で「東方の門」を執筆中であったが、静子夫人に看取られながら昭和18年8月22日に脳溢血のため帰らぬ人となった。

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国道に戻り歩き始めるとしばらくして、松並木が現れる。江戸時代の街道に植えられた松並木であり、1番大きな木は太さ4.3mもある。やがて、伊藤博文が別邸として建設した滄浪閣の大きな石碑が建っている。伊藤博文は、後に本籍を東京からこの地に移して本邸としたが、その後幾度か所有者が変わり、最後はプリンスホテルが別館として使用していたが、2007年頃に経営不振により閉業され、その後は使用されていない。しかし、歴史的価値のある建築であり、管理はされているとのこと。

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鴫立庵から2Kmほど歩くと、吉田茂邸がある。10年前に東海道を歩いたときは、閉鎖されていて、わずかに海岸道路側から吉田茂の銅像までの立ち入りが可能であった。
旧吉田茂邸は、明治17年に吉田茂の養父健三が別荘として建てたもので、吉田茂が昭和19年頃から、その生涯を閉じる昭和42年までを過ごした邸宅である。政界引退後も元西独首相アデナウアー氏、当時の皇太子殿下(今上天皇)と同妃殿下などの国内外の要人が招かれた。吉田茂没後にも、大平首相とカーター大統領の日米首脳会談が実施されるなど近代政治の表舞台としても利用された。吉田茂の没後、西武鉄道株式会社へ売却され、大磯プリンスホテルの別館として利用されていたが、平成16年頃より地元を中心に旧吉田茂邸の保存の機運が高まり県が整備する方向性が定められた。ところが、その後の計画検討の最中の平成21年3月に本邸が火災で焼失してしまった。しかし、平成21年7月には都市計画の位置付けがなされ、県が公園整備を行い、旧吉田茂邸は大磯町が町有施設として再建することとなった。
ともかく、入って行くとバラ園があり、その先に兜門がある。サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」とも言われている。屋根は「檜皮葺き」という、伝統的技法が用いられており、焼失を免れた内門は貴重な建築物である。

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進むと、吉田茂が暮らした当時の邸宅を復原した家屋がある。入場料を払うと内部が見学できる。

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吉田茂の蔵書も置いてある。人影でほとんど隠れているが、ダイヤルもましてや押しボタンもなく、受話器を持ち上げるだけで官邸に通じる黒い電話器も置かれていた。

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廊下に置かれた「バカヤロ」の文字が打ち抜かれた置物と大食堂。

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金の部屋と名付けられ、賓客の応接間として使われた部屋がある。また、金の部屋と対になった銀の部屋もあり、吉田茂が最後を迎えたベッドが置かれた部屋となっている。

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吉田茂も歩いたであろう庭園。

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ohiso_32.jpg最後は、以前にも対面していた「吉田茂銅像」である。昭和58年地元有志の方々により建立され、顔は講和条約締結の地サンフランシスコをむいているのだという。
今日は、以前から再訪したいと思っていた大磯を訪れ、10,000歩近く歩き、とても満足な一日となった。


最後に鴫立庵を訪れた記念に一首
夏来ぬと 湘南の空 輝けど しばしやすらぐ 鴫立の庵


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